GHQの洗脳がなくても別のきっかけで/日本人の特異性/何が洗脳かそうじゃないかわからない状態/GHQ
GHQの洗脳がなくても別のきっかけで/日本人の特異性/何が洗脳かそうじゃないかわからない状態/GHQの洗脳を受け容れられる余地/洗脳と日本文化
以下はhttp://nishiokanji.com/blog/2006/08/post_372.html#commentsより。GHQの洗脳を受け容れられる余地、洗脳と日本文化などの私のテーマ「歴史洗脳を解く」と共通するキーワードが満ちています。何を言いたいのか良く分からないのが玉に傷です。
以下はhttp://nishiokanji.com/blog/2006/08/post_372.html#commentsより。GHQの洗脳を受け容れられる余地、洗脳と日本文化などの私のテーマ「歴史洗脳を解く」と共通するキーワードが満ちています。何を言いたいのか良く分からないのが玉に傷です。
(前略)閑人さんの湯気の話ではなくて洗脳の話を。
私は所詮60年や70年の期間で起こったことですからたいしたことじゃないと思いますけど。ベクトルが逆になっているだけでしょう。明治以来日本人が西洋人になったわけでもなくそれより関係した歴史のある中国人になったわけじゃないと考えていますから。
私はGHQの洗脳がなくても別のきっかけで今回起こったのと同じことは起こりうるという作業仮説を置いています。一方でそしてそれがどうしてこれほど強く影響を及ぼしたのかに日本人の特異性があり、これをわかったうえで米国がやっていたら米国の怖さはすさまじい限りだと思っています。
そのすさまじさは閑人さんが書かれたように何が洗脳かそうじゃないかわからない状態にまでなっているという認識が示しています。米国が以下に書くようなことを意識してやっていたら現在の状況の主要因は米国でしょう。そうじゃなかったら主要因は日本の内部にありますから再び起こるだろうと作業仮説を置いているわけですが。
GHQの洗脳を受け容れられる余地はvagabond説にあるトラウマ、すなわち戦争に負けた不信感が一つあります。もっともご当人は自分の論立てがGHQの洗脳行為の説明になるという意識では書いていないようですが。その不信感はおそらく戦後教育の実施や巧妙な自己規制による言論封鎖によって戦前を知らない人に普及していったのでしょう。おそらく私のような60名クラスで成績が56番という先生に相手されない劣等生でなく先生の受けのいい生徒、将来は東大に行くだろうことを期待された生徒が素直に受け容れたのでしょう。そしてこの場合も事実認識によっておかしいなと気付く人間もいたでしょうし、一生騙されたままの人間もいたでしょう。すなおな国家公務員試験に通った優秀なエリートに東京裁判史観の人間がいたって驚きません。
もう一つは文化的にそれを受け容れる要素があった場合です。受け容れる要素を考えるということは過去の日本文化を考えることです。そこで文化の受容の話をしないといけません。
日本の民主主義は不思議なものでその不思議さは戦後にさらに強くなりました。もともと日本人にあったのは論争で正義を正すというのでなく柔らかな話し合いで合意を求めるという農村共同体での習慣から生じた文化と明治以降導入された西洋民主主義が習合したものでしょ。法でもそうで法は倫理と同じだと言い出す検事がいたりするのは愛嬌ですが。これは明らかに従来あった文化の中で共鳴する部分から外来文化を表面的に受け容れているわけです。
こういう前提で洗脳と日本文化の話を幾つか続けましょう。(中略)
東京裁判で日本が非難されていることが正しいと仮定してもそれは欧米がやったことをそのままやっただけの話でしょ。いわば「米国の鏡日本」です。もっとも福地説ではそんな単純なものじゃないという論説が説かれていましたが。しかし日本の大多数の国民は欧米の弱肉強食原理を正しいと受け取ったでしょうか。欧米の弱肉強食原理を是として明治以来受け取っていたら東京裁判の茶番は独立記念日以降に簡単に解消したでしょう。米国の巧妙なのは日本人が弱いものいじめで代表される徳治社会にいて、かつ警察制度や裁判制度に対する信頼がある社会で、かつ弱肉強食原理になじまないことを知った上でああいう裁判をやったのならそこが絶妙な点です。
日本人は条理より情理を好む人間が多いのです。情理は相手に対する「なさけ」であり、これは理屈でなく感情でもあります。おそらく日本社会を動かしているのは理屈でなく国民感情なのでしょう。祖先が情に反する残虐行為を行ったといわれたら嘘だというか、そうかもしれないと思うか。日本人学者の多くは欧米の学問を勉強しています。欧米の学問を勉強してきた人で全部じゃないでしょうけどそれを否定することは自分の立脚点を否定することになるでしょう。そうだとしたら情においても、また自分の立脚点確保の点からも日本を否定するのはありうることだと思います。もともと否定していた人なら別に問題はありませんが、そうじゃない場合が困り者ですが。
最後にマッカーサー神社とひっくり返っただけだという話を。(中略)
学者が考え方が変わったといっても実際の思考構造は同じで、ベクトルが逆になった場合はしばしばありえます。「戦果累々たる皇軍の神兵」から「戦果累々たる米軍の神兵」に変化するのは容易です。学者だけでなく日本人だってマッカーサー神社を建てようとしたのですから日本人の中にはすさまじい人もいるものです。機械計算課長こと松井康雄
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